自説

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英語 公用語化はショック療法

英語を公用語に採用する会社が増えてきている。日産、ユニクロ、楽天、その他証券会社。

その一方で、この動きを批判する知識人たちもたくさんいる。
「英語を公用語にするなんて、植民地の発想だ」
「日本で全員日本人の会議で英語で議論など馬鹿げている」
「仕事より英語ができる人間が昇進してしまう」
「メルケル首相など、ネイティブ並みに英語ができる人でも国際舞台で自国語で演説するのに、なぜ日本の閣僚は流暢とは言い難い英語で演説するのか」

などなど、さまざまな批判意見があり、どれも、至極ごもっともだ。

しかしながら、私はこの英語公用語化の潮流は、英語を苦手とする日本人に対するショック療法だと思っている。
日本人の多くは英語を苦手としており、これが、グローバリズムの時代の中で日本が後れをとってきた最大の原因と考える。なんせ、我々日本人は“極東”の島国に住んでおり、英語は“極西”の島国の人たちが話していた言葉。地理的に英語と日本語は最も離れており、しかも日本が島国で他民族と交流がないため、外国語を使う必要性も乏しい。
この苦手意識を克服するためには暫定的に、手荒な、あるいは不自然な処置もやむをえまいだろう。社内で英語を公用語化し、強制的に英語を使わざるを得ない環境を作ってやれば、みんながんばって英語を勉強する。そして、社内のみんなが、曲がりなりにも英語を使えるようになったら、この処置を解除し、公用語を日本に戻せばいい。日本の50%以上のホワイトカラーが英語で会議ができるレベルまでになれば、日本の国際競争力も一段と上がるはずだ。

年をとった管理職に英語の習得を強制させるのは酷だという意見があるが、これには同意できない。人間はいくつになっても新しい能力を習得できるものと私は信じている。私自身、恥ずかしながら英語がとても苦手で、現在勉強中だが、少なくとも高校の頃よりは速いスピードで英単語を覚えていっていると思う。楽天は、2年で英語を習得できない役員はクビだと言っているが、2年の猶予期間があるなら、本気で頑張ればそれなりに英語はできるようになるだろう。

私は英語ができないため、ずいぶん損をしてきた。英語のマニュアルをまともに読めなかったし、読みたいテキストは英語で書かれていてあきらめたし、タンゴをやっていても、外人との交流の妨げになっていた。
インターネットの普及やスマートフォンの登場で、私が高校生のころとは比べ物にならないくらい、簡単に安価に英語を学習する環境が整ってきている。英語をがんばろう。

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縦書きと横書き

日本でも電子書籍が徐々に普及し始めている。私も電子書籍と言えるかは疑わしいが、青空文庫で寺田寅彦の短編随筆をちょくちょく読んだりしている。
さて、最近売られている、有料の、電子書籍や、青空文庫を読むためのアプリで気になることがある。買う前に、こんな感じで読めますよ、と見本を見ることができるのだが、それがたいてい、縦書きで書かれているのだ。
新聞は縦書き、小説も縦書き、学校の教科書は国語以外横書き、と何気ない先入観が日本人に染みついている。その延長で、小説を電子化したため、縦書きフォーマットにしたのだろうと推察される。

ここで、縦書きと横書きを比較した場合、それぞれどんな特徴、利点があるのか整理してみよう。


1.縦書きの利点/ 見開きの右ページから左ページに移動するとき、視線が飛ばない。

 言葉では説明しにくいのだが、横書きの書物を読むとき、左ページの下まで読んで、次に右ページの上に視線を移動するとき、視線が下から上に“飛ぶ”のだ。
横書きで視線が飛ばないようにするためには、預金通帳のように上下開きに本をとじる必要がある。しかし、人間は、手で左右から本を持つので、上下開きの本より、左右開きの本の方が持ちやすいのだ。
 でも縦書きでは、左右開きの本で、視線が飛ばずに見開きのページを読みとおすことができる。
 なお、電子書籍になった場合、「見開き」という概念がなくなり、横書きの欠点は消えるため、縦書きの優位性はなくなる。

2.横書きの利点/ 英数字との親和性が高い。

 英単語やアラビア数字は横書きで書くように作られている。これを無理やり縦書きの中に挿入しようとすると無理がでる。たとえば、この本の中身を見てほしいのだが、google、i Phoneなどのアルファベット単語が頻繁に出てくるのに縦組みにしたため、非常に見づらい。最初から横書きにすればよかったのに。


 このように考えると、その書物を縦組みにするか、横組みにすべきか、おのずと判断することができる。
たとえば、新聞は何気なく縦組みになっているが、経済欄などで、「表面利率は前月発行債の1.1%より0.1%低い1.0%。」など、数字が頻繁に出てくるため、横組みの方が見やすいのだ。日経ヴェリタス、産経エクスプレス、フジサンケイビジネスアイなど、先進的なタブロイド紙は横組みを採用してるが、大半の新聞は縦組み採用になってしまっている。
 法律も縦書きになっているが、第六百七十八条と漢数字で表現するより、第678条とした方が読みやすいので、横書きの方がいいだろう。ちまたの六法全書はたいてい法律の原典に合わせて縦組みを採用してしまっている。先進的な横組み採用の六法はまだまだ少数だ。

 実は、縦組みにした方がいい書物は、小説、随筆、伝記など、最初から最後まで読みとおすタイプの書物で、かつ、英数字が本文にほとんどなく、かつ、紙にした場合のみなのだ。そしてこれらの書物でも、電子書籍になった場合は、横書き縦書き、どっちでもよくなる。どっちでもいいと言ったが、基本、コンピュータは横書きで文字を表示するように設計されているため、素直に横書きにすればいい。

 電子書籍は、わざわざ苦労して縦書きを採用する必要はない。アルファブロガーの池田信夫は「日本語独特の縦書きやルビなどにきめ細かく対応した国内標準を策定し、国際標準から決別、ガラパゴス化することで既得権益を守ろうと画策している勢力がある」と懸念を示している。
 電子書籍は横書きがいい。

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解雇の自由化 期待と不安

北欧などは解雇は自由で、その代わりセーフティーネットが充実してるらしいので、企業はいらない人間をいつでも首を切れるし、また切られた側も生活にすぐには困らないらしい。(間違ってたらご指摘を)
逆に日本では正社員が不当に保護されて、そのしわ寄せが期間社員に行っている。

解雇を解禁せよ。
 解雇自由化は日本経済復活のための一丁目一番地 - 藤沢数希
 最悪の時はこれからだ
これらの主張は、なかなかお面白く、セーフティーネットの強化と併せて、試してみる価値がある。

しかし1つ懸念がある。あまりに解雇自由をやりすぎると景気の波が、大きくなり不安定になるのではないだろうか。
たとえば、次のモデルで考えてみる。
・ある村に家を作りたい人が10人いる。
・その後10年間、その村には家を作りたい他の人が出現しない。
・その村には1人の大工がいる。
・大工1人で家を作るのは1年かかるとする。
・その村は閉じた世界で、外部との人や物の交流がない。
解雇自由な社会の場合、1人の大工が9人の社員を雇い、総勢10人の大工で、最初の1年ですべての家を供給し、翌年に全員解雇、その後9年間一軒も家が作られなくなる。
解雇ができない社会の場合、1人の大工が1年で家を一軒ずつ作り、10年でその村の需要に対して供給する。
どちらが理想の社会だろうか。たしかにミクロ的にみると、解雇ができない社会の場合は、建築を最後に回された施主は10年間欲しい家が手に入らず不便な思いをする。でも、マクロ的に見た場合、景気は安定したほうがいいので、毎年一軒ずつ家を作る方がいいのではないだろうか。

つまり、解雇が自由になると、需要の大きな波に対して、供給サイドがその生産力を簡単に調整できるようになるため、景気の波が大きくなる。逆に解雇が不自由だと、需要の波に供給サイドが簡単に追随できず、景気曲線がマイルドになり安定するような気がする。

でも、こういった懸念があっても、私は解雇自由な社会の方がいいような気がする。

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強い心

私が、最も好んで定期的に読むブログ、金融日記

なぜ好きかというと、理由はいくつかある。
 1.新自由主義者である私と、経済思想が似ており、共感できるため。
 2.経済や金融の勉強になるため。
 3.最近は記事が載らなくなってしまったが、地頭力で展開する恋愛工学が、くだらないなりにも面白かったため。

しかし、このブログが好きな最大の理由は、
 4.批難コメントの嵐でブログが炎上しても、批難コメントが消去されず掲載されるから。
最近も、資本主義の罪と罰というエントリーに批難コメントが殺到している。にもかかわらず、著者は炎上したエントリーを放置したまま次々と新しいエントリーを掲載し、淡々とブログを更新している。このエントリーによれば、たとえ批難コメントでも、コメントを読めることを楽しんでいるようだ。

称賛意見ばかりを選んで載せるブログは見ていて気持ちが悪い。意義のある主張には必ず反論や批判、場合によっては批難があり、対立している双方の意見が読めてこそ、読者は事の本質に近づくことができる。ブロガーは炎上に動揺することなく、自己主張を続ける方がかっこいい。そのことをこのブログは教えてくれた。
しかし多くのブロガーはこうはいかないようだ。炎上により、いたたまれなくなってブログを閉鎖したり、炎上したエントリーを消去して何事もなかったかのように振る舞う事例は枚挙にいとまがない。

強い心とは何か。「批難に動揺せず、信念を貫ける心」が1つの答えだろう。歴史に名を残す政治家たち、たとえば小泉純一郎などは、批判を気にせず、失敗すればすべて自分ひとりの責任という状況に追い込まれても、自分の信念を貫き勝負に打って出た。逆に坊ちゃん首相だった安倍晋三などは、党内外の批判に耐えられなくなり、無様に職を投げ出した。

私も批難に動揺せず、信念を貫ける男でいたい。仮にこのブログが炎上しても、金融日記の著者のように振舞いたいと思う。

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死刑執行 法相を見直した

私はかねてから、法相はえん罪の可能性をよくよく検討し、絶対にえん罪はないと確信したら厳正に死刑執行を命令すべきと主張してきた。過去、執行命令を出した法務大臣もこのことはよく心得ているようで、自信と責任を持てる事案以外、執行命令したことはないと私は認識している。そしてそれは今後も続くはずだ。
つまり、日本では無実の罪で死刑判決を受ける可能性はあっても、無実の罪で死刑を執行されることはないと考えていい。林眞須美のように状況証拠だけで死刑判決が出たような事案はえん罪の可能性があり、死刑が確定しても執行命令を出す大臣は今後もいないだろう。林眞須美は事実上の終身刑になったわけだ。
よって、元警察官僚の亀井静香などの死刑廃止論者がいう「えん罪で死刑になるかもしれないから、死刑は廃止すべき」との主張は失当である。

話は変わるが、死刑はいかに執行されるかという本を昔読んだ。この書籍はどこかに行ってしまい、手元にはないが、死刑を執行する現場の人間の苦悩が書かれていた。「せめて実際に執行する我々の思いを、法務大臣や裁判官たちが知ってほしい」みたいなことが書かれていたと記憶している。(まちがってたらごめん)
これを読んだとき、執行命令する法務大臣は一度死刑執行に立ち会うべきと私は感じた。

死刑反対論者だった法務大臣が、死刑執行命令を出したうえに、自らも執行の現場に立ち会ったという。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/421256/
執行命令は当然として、執行を見届けるとは立派ではないか。「死刑の見学とはいい趣味だ」などど嫌味を言う連中は逝ってよし。(古いか・・)
法相が命令に署名した時は参院議員だったという。野党も「国民からレッドカードを突きつけられた大臣はそんな命令を出すべきではない」、「明らかにパフォーマンス」など、批判しているが、野党の仕事はただ批判すればいいというものでもない。死刑反対を唱える政党ならいざ知らず、保守政党は執行を批判すべきではない。

凶悪犯は、応報刑論の観点からも死して罪を償うべきだし、目的刑論の観点からも同じ罪を繰り返さないように抹殺した方がいい。今後も、刑が厳正に執行されることを望む。

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